読者の皆さんは競技フィットネスをご存じだろうか?日本ではまだあまり馴染みのない『競技フィットネス』。これは鍛え上げられたボディを競うだけでなく、それぞれ創意工夫されたパフォーマンスで、時にはパワーアクション、また大胆なアクロバティックなアクションも取り入れられ、その身体能力だけでなく芸術性も問われる、まさに究極のフィットネス競技なのである。
2015年3月7日、アメリカ・オハイオ州・コロンバスコンベンションセンター。フィットネスカテゴリーのステージにクラシックバレエの装いで一種独特な選手が現れた。後で分かったのだが、そこに現れたのは、すでに昨年(2014年)このアーノルドクラシックとオリンピアの2大コンテストにおいて、連勝しているロシア出身のOksana Grishina(オクサナ・グリシナ)であったのだ。
完璧なルーティーンのBlack Swanの演技は見る者すべての目を釘付けにするエネルギーと情熱を放ち、演技終了後は場内割れんばかりの歓声につつまれた。そして今年のアーノルドクラシックのタイトルも必然的にOksanaの手に収まっていった。 日本でもこの競技フィットネスが広まることを願い、今回日本の雑誌としては初めて競技フィットネスにフォーカスし、Oksana Grishinaの世界観はどのようにして形成されたのかを探ってみる。
幼少期
私はロシア西部にあるカリーニングラードの出身です。子どもの頃、父が軍人だったので私の家族は頻繁に引越を余儀なくされました。父がラトビアのリガに赴任した時、母は私のエネルギーを導く方法として、私に体操をやらせることにしました。
そして母は私をリガの体操教室へ連れて行きました。器械体操のクラスはセッションがなかった。しかし母はその学校で見た新体操の美しさに魅了されました。
私が体操競技を始めたのは7歳の時で、決して早く始めた訳ではありません。しかし、コーチは私のポテンシャルを見て、すぐに新体操のクラスに入ることを認めてくれました。
それから数ヶ月の間トレーニングをして、私は最初の競技会で3位になりました。3年後、父はロシアで新しいポストに再び割り当てられました。この仕事は政府の住宅に住むことが保証されたので、それはその場所に落ち着くことを意味しました。
ところが残念なことに、この街には体操教室がなかったのです。リガのコーチは、私がリガにそのまま滞在し、トレーニングを継続し続けるチャンスを私に提供してくれました。
両親は、私にどうしたいのかを尋ねました。私はリガに滞在し体操を続行したいと言いました。すると両親は驚いた様子でしたが、私の体操への欲望と情熱を理解してくれました。
私の父は、(体操学校のある都市)カリーニングラードに引っ越すことができるように、別の役員と役割を切り替えてくれました。しかし、これは私の家族のためには莫大な犠牲がありました。なぜなら政府はそこでは私たちに住宅を提供してくれなかったからです。
でもその結果、私はカリーニングラードで体操を続行できるようになりました。その後も、私たちは引越を繰り返し、次々と学校も変わりました。
私は家と学校と体操教室の間を徒歩とバスで通うのに多くの時間を費やしました。だから私は両親に会う時間もありませんでした。